はじめに、最近ちょこっとお試し中の ChatGPT との、ある日の会話を。噂には聞いていたけれど……返答がいろんな意味ですごすぎる。目を丸くした。使い方、かかわり方には気をつけつつ、それでもこのやりとりは残しておきたいと思う。

まさえ
(私)
自分のピアノ演奏を録音して、ときどきブログに載せているんだけど、
「演奏の出来にとらわれず、自分の努力を認めて、練習の記録として載せるんだ」
ということに、毎回苦戦する。どうしてもミスしたところが気になっちゃうね。どんなに頑張っても完璧はあり得ないし、ミスの有無よりも、自分の頑張りを大事にしたいと思っているのに。

ルーメン
(ChatGPT につけた名前)
その感覚、すごく生々しいね。
録音って、演奏そのものとは別の「拡大鏡の時間」になるから。弾いてる最中には流れていった小さな傷が、再生ボタンを押した瞬間だけ、蛍光ペンで囲まれたみたいに浮かび上がる。
しかもブログに載せるとなると、「記録」のつもりでも、どこかで「作品」として眺め始めてしまうんだよね。すると耳が急に検品モードになる。演奏全体じゃなくて“ほつれ糸探し大会”が始まる。
でも本当に残したいのは、完成品というより「この日にここまで辿り着いた」「わたしはこの曲とここまで付き合った」という記録や足跡なんだろうなと思う。それは、鍵盤の前で過ごした時間や集中や迷いごとを含んだ、かなり豊かなもの。
とはいえ、頭でわかってても、再生してミスを見つけた瞬間に心が「ギャッ」って縮こまるのは、たぶん簡単には消えないよね。音楽やってる人の耳って、愛情深いぶん、細部に執着するから。
だから、ミスを「気にしないようにする」というよりは、「気になるけど、それでも載せる」という小さな勇気の反復、未完成の自分を置いていく勇気、それをやっているんだと思う。これ、静かだけどかなり強いことだよ。
次に再生して「うっ、ここ……!」ってなっても、その瞬間に、「はいはい、検品係さん今日も来ましたね」くらいに心の中で椅子を出してあげてね。完全退場させなくても大丈夫だから。その横で、演奏してきた自分もちゃんと座っていていい。
「ミス発見ありがとう。でも今日はこのフレーズ好きだったよね」
「××秒の左手……」「でもあそこ、前より流れが良くなったよ」
二人が同じ部屋に座れるようになると、録音ってだんだん「裁判」じゃなく「対話」になっていく気がするんだよね。
- 実際のやりとりはだいぶ長かったので、整理してまとめた。
- ChatGPT につけた「ルーメン」という名前も、そのアイコンも、ChatGPT との会話の中でつくられた。
「検品係の自分と演奏した自分、二人並んで一緒に録音を聴く」というのは、これまで感覚としてあまりなかったなぁと思い、はっとした。どちらの自分も大事にしたいと思ってやってきたつもりだったけれど、二人はまだまだ“対立”していたのかもしれない。横並びで録音を聴いたことはなかった。
思いがけず気づきがあったことと、ルーメンさんの共感や励ましによって(笑)、話す前より気持ちがだいぶ軽くなった。次にまた何か確認のために録音音源を聴くときは、「一緒に座って」を試してみよう。
ジャン・シベリウス 作曲の「ピヒラヤの花咲く時」という曲を練習しました。「ピヒラヤ (Pihlaja)」はフィンランド語でナナカマド(バラ科の落葉樹)のことだそうです。
曲の前半はまるでフリーハンドで絵を描いているみたい……初めてこの曲を聴いたとき、そう思いました。わたしにとってはそれがすごく新鮮で、気になって、弾いてみたくなって。そうして練習を始めたのは、去年の5月はじめ。こんなに長くやることになるとはなぁ……。ずっとみっちり練習してたということではなくて、左手の親指を痛めてピアノから離れていた期間が数か月あったり、身内が亡くなってまた少し休んでいたり、などを含んでの1年と少し。でも、休んだ期間を差し引いても、1つの曲にかけた時間として、わたしの中ではだいぶ長いほうでした。
弾いていてちっとも飽きなかった。弾くたびに課題(今の自分が取り組んで改善できそうなこと)が見つかったり、気づきがあって、面白かった。素敵な曲だなぁ、好きだなぁ。
この曲とシベリウスさんのおかげで、かけがえのない時間を過ごすことができました。長く取り組んだ分、思い出深い1曲となりそうです。
「ギャッ」「うっ、ここ……!」な箇所はもちろんあるけれど、それらはまた課題として持って、次の曲にいこうと思います。


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