2月に、それまで練習してきたジョセフ・ラムの「ボヘミア・ラグ 」という曲を録って載せました。その後、もう1つくらい続けて ラグタイム の曲をやろうかなと思い、やはりジョセフ・ラムの作品の中から「ラグタイム・ナイチンゲール」という曲を選んで練習してきました。「ボヘミア・ラグ」のときは3週間弱ほどでさっさと終わらせてしまったけれど、今度の「ラグタイム・ナイチンゲール」は曲の内容的にも自分の気持ち的にもそうはならなくて、気づけば練習を始めてから3か月半が経過。
「そろそろ録音をして、これも一旦終わりにしようかな」
少し前からやっとそういう気持ちになってきています。
今はこれ以上やってもそれほど良くはならないだろうな、となんとなく思うのと、それと、わたしにとってラグタイムは、ずっと続けてやるのはけっこうしんどくって。体力を使うというだけでなく、音(ジャンジャン鳴り続ける和音)を聴き続けるのがキツくて、だんだん頭や喉が痛くなってきたり、音に“抵抗”(音を拒否)する自分のからだに気づいたり……。
だから、どちらの意味でも
「一旦これくらいにしておくといいんじゃないか」
と思っています。
が……そう思っているのに、実際にはちっとも録音しようとしないわたしがいます。レコーダーの「レ」の字にも触れようとしなくて(?)、録音の準備に全く気持ちが向かわない。そして、来る日も来る日も、どこかもやもやした気分でこの曲を弾き続けています。
「一体、わたしは何をしているんだ?」
と自分で思う。
ホント、これ、何をしているんだ?
昨日、少しだけど、この自分を眺めてみました。もやもやをじっくり感じてみたり、いくらか考えてみたり。
「単に録音が面倒なだけ?」
確かになくはない。でも、そんなに大したことじゃないな。それ自体が面倒だからというより、ほかのことが録音をより面倒にさせている、というのならあるかも。
「実はまだ、演奏に全然納得いかないのかな。もっとやれるとか、もっとやりたいとかって思っているのかな」
それはどうかなぁ。完璧なんて思えるはずはないけれど、今はこれが精一杯って、本当にそう思っているよなぁ。疲れてきてもいるしさ。
「とすると……この間のこと……?」
……やっぱりそうなのかもしれない。
半月ほど前に、数人の前でピアノを演奏する機会がありました。でもそれは、わたしが望まないかたちでのものだったし、弾いた後にも望まないこと(避けたかったこと)が起きました。
「そういうこと(披露するための演奏、聴かせるための演奏)はやらないよ」
「わたしには大切にしていることがあるから」
と事前に伝えてあったのですけどね。出来事の詳細は書きませんが、そのときのことでわたしは傷ついたし、未だに悲しみと怒りの中にいます。
わたしは自分の大切にしているものを、自分自身を、あの日守ることができなかった……。
彼らとその場でちゃんと闘えば良かったのかな。でも(相手側の)子供もいたしなぁ。誰かの前でピアノを弾くこと自体が絶対にダメとかイヤってわけじゃないんですけどね。ただ、ああいうのは本当に「勘弁してくれ」って感じで……。
そのとき弾いた曲の中に、練習中だった「ラグタイム・ナイチンゲール」もありました。
望まないかたちで弾いたことよりも、弾いた後に起きたことのほうに、けっこうやられています。「ラグタイム・ナイチンゲール」を弾くたびに、そのことが自分に突き刺さってくるかのよう。ムカムカしながら弾いてしまったり、凹んで、ときには泣いて、エネルギーが足りなくて、とてもじゃないけどラグタイムなんて弾けなくなってしまったり(気持ちで負けちゃう)。
こんなことでいちいち弾けなくなったり、自分の演奏が分からなくなったりしたくないのになぁ。あー、情けない。修行が全然足りないや。不覚。
ぐだぐだと書いてしまいました。「ラグタイム・ナイチンゲール」は……録らずにこれでおしまい、っていうのでもいいか。ここまで来てそんな気持ちも出てきました。
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