4月8日、義父ががんで亡くなりました。
67歳でした。
手術をして、でも数年経って再発して・・・
義父がもうそれほど長くは生きられないかもしれないことを
わたしが最初に聞いたのは、確か2013年の夏か秋頃。
そのとき~その後も何度も
「義父のところに顔を出しておいたほうがいいかな」
と思ったけれど、ずっと会いに行かないでいました。
義父のことは嫌いじゃなかった、むしろ
「『お父さん』って感じでいいなぁ」
と思っていたし、感謝の気持ちもいっぱいあった。
特に、母のことで助けてもらったこともあったし。
けれど、子供の頃からの親子関係、家庭状況などから
「家族」という人間関係やシステムのことが
とても難しい問題として、立ちはだかるものとして、自分の前にあって
わたしはずっと、どうしても義父に会いに行けないでいて・・・。
それが、先日やっと
自分の意志として、心から納得した状態で、会いに行くことができました。
義父が亡くなる3日前(4月5日)のことでした。
行くのがぎりぎりになってしまった。
言葉を交わすことはもうできない状態だった。
でも、わたしはわたしなりにずっと
勉強を、自分を見つめる作業を、頑張って続けてきた。
義父に会いに行くのなら
「~すべき」「~ねばならない」(会いに行くべき、行かねばならない)ではなく
「~したい」(会いに行きたい)という気持ちで行きたかったんだ。
そういった自分のことは否定したくない、認めてあげたい。
ぎりぎりでも間に合って良かったなぁ・・・今、わたしはそう思っています。
義父の亡くなる前の様子や亡くなってからのことを通して
良くも悪くも、考えさせられたことや勉強になったことがいくつかありました。
大まかには
「(自分でない誰かの)死について」
「お葬式というものについて」
「『家』について」 ↲ (構造物としての「家」のことではなくて、 ↲ 家柄、一族、家系、文化、風土、慣習など・・・そんなあたりのことっていうか・・・)
といったことかなぁ。
「死について」のうちのひとつだけおはなしすると・・・
わたしの場合は、誰かが亡くなるとき
その死に何か意味やストーリーなどを付けるようなことを必要としないようです。
そういうのはあまり好きじゃないみたい。
最期のときが近づいてきている、ということや、亡くなったという事実、
それから、自分の中に、たとえば
「悲しい」「つらい」「ありがとう」といった気持ちがある、ということ、
(感情の種類ではなく、自分がどんな気持ちなのかにただ気づいているということ)
そういった“実際のこと”だけで充分だなぁ、って。
何かを付け加えたりしたくない、大げさにしたくない、
わたしはそのままがいいな・・・。
前々から漠然とは思っていたことですが
今回、改めてはっきりと感じ、自分の中でこんな風に“言葉”になりました。
5、7、8日と病院にいる義父に会ってきていて
さっきも書いたように、そこで言葉を交わすことはもうできなかったのですが
義父が呼吸をしているのを見つめていたら、なんとなく
「同じリズムで呼吸をしてみよう」
という気持ちになり・・・
義父と一緒に、同じリズム、タイミングで、息を吸ったり吐いたりしてみました。
そんなことを思いついたのは初めてだったのですが
やってみるととても穏やかな気持ちになった自分がいて。
不思議な感覚だったなぁ・・・。
自分の中に
「(もうすぐ亡くなってしまうんだなぁ)悲しい」
「来るのが遅くなってしまって、ごめんなさい」
という気持ちがしっかりありながら、それらの気持ちと対立することなく
穏やかで、そのときのその時間を過ごせていることを嬉しく思う気持ちも感じました。
その呼吸が止まり、義父とお別れとなりました。
グリムスキーワード:絶滅動物
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