先日、部屋の中でものをなくした。なくなったものは大したものじゃないけれど、「なくした」ということにいくらか落ち込んだ。買ってからまだ1か月ぐらいしか経っていなかったのと、それを使うのは初めてだったんだけど、試してみて「あ、なんかいいかも」と思い始めていたのと。それと「ものをなくす」こと自体がすごく苦手なのと。
「ものをなくす」って、本当に嫌だ。嫌だから、なくさないようにいつも気をつけている。けれど「絶対になくさない」なんてやっぱり無理で、どうしてもときどきは何かなくしてしまうことが出てくる。
子供の頃、ものをなくして、自分で探しても見つからないときに、母に
「○○がなくなっちゃった」
「見つからない」
と言うと、
「何やってんだ!」
「どこに目つけてんだ!」
と強い口調で怒られていた。そう返ってくることは分かってる。怒られたくない。嫌だし、怖いし。だから「なくした」なんて言わないで済むならそうしたい。なくさないように、わたしだってすごく気をつけてる。今も一生懸命探してる。だけど、どうしても見つからなくて、困って、「あとどこを探したらいいかな」「お母さんはどこかで見かけなかった?」と思ったり、新しいのを買ってもらわなくちゃならないかもしれないから、仕方なく言ってるんだ。
なくしてしまったことで既に凹んでいるのに、やっぱり怒られてさらに凹む。嫌な気持ち、悲しい気持ちが何倍にも大きくなる。普段どんなに気をつけていたって、自分でどんなに頑張って探したって、どれだけ困って、落ち込んで、悔やんでいたって、そんなの関係ない。
何はどうあれ、なくしたらダメ。なくしたわたしはダメな奴。
ものを壊してしまうことに関しても同じ。わざと壊すわけじゃない。不注意で壊してしまって、そんなときは当然、わたし自身かなり落ち込んでいる。でも、それも関係ない。
ああ、また怒られる……。
何かが起きたとき、
「どうしたの?」
「何があったの?」
と母が優しく聞いてくれたことは一度もない。わたしも相談しようとしたことはない。「相談」なんて、そこまで頭が回らなかった。からだを固めて、こころも固めて、嫌な時間をなんとか越えていくだけだ。
ものをなくすと、今でも変な焦りが出てきて、落ち着かない気分になる。もう誰に怒られるわけでもないのに。けれど、からだはまだ昔の感じを覚えているんだね。
先日のなくしものでは、ある程度探したところで
「よし、探すのはここまで。一旦諦めよう」
と自分に言ってあげた。そして、もう一度買うことにした。今はそれでいいじゃないか。どうするか自分で決められるし、決めていい。
それにしても、なくなった今回のそれはどこへ行ったんだろう?よく探したけど見つからず、掃除したときにも出てこなかった。間違って何かと一緒に捨ててしまったとか、思いもしないようなどこかの絶妙な隙間に入り込んでいるとか、そんなことなんだろうけど……。それとも、ひょっとしたらどこかの異空間にでも飛び込んでいったのかしら?なんて、ときどきはそんな想像をしちゃったりして、そう思うと楽しい気持ちにもなってくる。
そのうち出てきたりするかな。どこからどう出てくるんだろう?答え合わせができるのは、何日先か、何年先か……。
後日談
なくしもの、それから2か月半ほど経って、
「え!?こんなところにあったの?」
という場所から出てきて見つかりました。いや~、そこは全く考えなかったなぁ。そんなところに一緒に入っていたとは。
あまりに普通に、当たり前のように出てきたものだから、そのとき自分が見ているものが何なのか、どういうことなのかがすぐには理解できなくて、少しの間を置いてから驚いたわたしだったのでした。
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